2009年7月15日

スィパーヒーとオスマン帝国

オスマン帝国の常備軍騎兵ではあるが、同じ常備軍騎兵であるカプクルの騎兵とは別物であるため、例えば有事の際にある一つの地域から騎兵を召集する際にはスィパーヒーとカプクルの騎兵が同時期に別々に召集された。こうした騎兵の召集も本来騎馬民族であったセルジューク系オグズ(テュルクメン)集団を起源とするオスマン帝国だからこそ可能であり、時代が進み銃と大砲が主要な兵器として定着するまで、実際にオスマン帝国の戦力はこうした騎兵達が多くを占めていた。

装備は所有する封土によってまちまちであったが基本的には軽装で戦法も射騎戦法が主であった。15世紀頃になると重装騎兵へと変わっていったが、さらに時代が進み17世紀頃には銃の発達から重装化よりも軽装化による機敏性を重視されたためか、重装備のスィパーヒーも少数となり、全体としては軽装騎兵へと戻っていった。全時代を通して戦場において自分の地位や所属、武勇を周囲の敵味方に示すために羽飾りや派手な衣装で身を飾っていた。

中世から近代に移行する中で西洋の騎士やそれを支えた封建制度が没落していったのと同様に、オスマン帝国が拡大していく中で、スィパーヒーやその他のオスマン帝国の騎兵部隊は東ローマ帝国やサファヴィー朝ペルシャなど火器を主要な武器としない国と戦う上では大きな貢献をしたが、オーストリア帝国をはじめとするヨーロッパ諸国は小銃と重装備の騎兵とを揃えており、これらの勢力を打ち破ることはスィパーヒーでは困難になった。特にウィーン包囲戦での敗北から徐々にその重要性が失われていった。それとは対照的に火砲で武装したイェニチェリ及びその他のカプクルの軍隊の重要性が高まり、要員と軍事費が大幅に増加していったため、スィパーヒーとそれを支えていたティマール制の存在価値は共になくなり、最終的には形骸化し没落していった。


インドにもスィパーヒーの乱で有名なイギリス東インド会社の現地民傭兵部隊、スィパーヒー(en:sepoy、セポイとも)が存在する。日本では一般的にセポイの呼び方の方が定着している。

元々はカースト制の中でのある一定の階級の人々を指して「セポイ」と言い、この階級から編成された部隊であることからそう呼ばれるようになった。これはオスマン帝国のスィパーヒーとはあまり関係はなく、単に同じペルシア語ないしその系統の言語の単語から派生したに過ぎず、英語でもこの2つは区別されている。現にオスマン帝国のスィパーヒーは遊牧民の末裔を自負することもあって、小銃を携える事はあっても火器を主要武器として戦うことを拒み騎馬で戦い続けたが、インドにおけるスィパーヒーは積極的に火器を導入しその多くは歩兵として戦闘に参加した。なお、このスィパーヒーに採用された火器(小銃)はインドが多湿な環境であったために火打ち石式銃よりも確実に火薬に着火することができる火縄銃が大多数を占めており、それは第一次世界大戦で英軍として戦うまで変わらなかった。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

インドのセポイについても調べてみました。

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